チャルーア族歴史です。
この背景には何があったのでしょうか。
征服の直前において現ウルグアイの地域には5000人程の先住民しかいなかったが、チャルーア族はグアラニー族と並んでその中で主要な民族だったようである。
ラ・プラタ川にやってきた最初のスペイン人の航海者フアン・ディアス・デ・ソリスは当初チャルーアに友好的に迎えられたが、ソリスはこれを無視してチャルーア族に従うよう強制した。四年後再びこの地に赴いたソリスはチャルーア族に殺害された。 ヨーロッパ人を信用するに当たらないとみなしたチャルーア族は1536年に建造されたブエン・アイレ(ブエノスアイレス)市を激しく攻撃し、この町は1541年には放棄された。こうしてチャルーア族はラ・プラタ地域でヨーロッパ人の最大の敵となった。
ソリスとの接触からヨーロッパ人との長きに渡る戦いが始まった。チャルーア族はアメリカ大陸の先住民の中でも稀に見るほどの闘争心を持って徹底的に戦い、しばしば攻め込んできたスペイン人征服者を撃破したが、次第に勢力を衰えて1800年ごろまでには今のウルグアイ北部にまで追い詰められていった。
解放戦争が始まるとホセ・アルティーガスのトゥパマロス軍に加わり、スペイン軍やブエノスアイレスからの独立戦争に加わるが、ポルトガル軍の侵略によりアルティーガスが失脚しウルグアイの初代大統領にフルクトゥオソ・リベラが選出されると、1831年リベラの甥のベルナルベ・リベラにだまし討ちにあってサルシプエデス川の戦いで敗れ、1000人ほどに減っていたチャルーア族は民族集団としてはここで滅びる。ここで僅かに生き残ったチャルーア四人はフランスに売り飛ばされ、見世物にされた。彼らを偲んだ最後のチャルーアの銅像はモンテビデオに建てられ、遺骨は2002年にようやく169年ぶりにウルグアイに帰った。
ガラ・チャルーア(garra Charrúa チャルーアの爪)という言葉はチャルーア族の不屈の闘争心を表し、現在ではウルグアイ人の魂のようなものを表現する時に使われることもある。似たような意味でサングレ・チャルーア(sangre Charrúa チャルーアの血)と言うこともある。
サッカーウルグアイ代表チームはロス・チャルーアスと呼ばれる。ブラジルのポルトアレグレのラグビーチームにもチャルーアの名を冠するものがある。
引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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